M9.0東北地方太平洋沖地震(5)  激走の果てに!
”M9.0東北地方太平洋沖地震(4) 奇蹟の激走!”から続きます

3月21日、08時30分に仙台南ICを下車、副代表タン氏と会って一部ガソリンを渡すことができた。タン氏も連日の被災地での作業に疲れきっていた。それでも「サイモンちゃんありがとう!」と笑顔で送り出そうとしてくれた。次に向かうは親類のいる岩手だ! 一度下車してしまった緊急車両専用の東北道にはもう乗れない、下道で出発をしょうとしたらタン氏が検問に立っている警察官2名と討論を始めた。私をどうにかして東北道に入れる為に口説きに入ったのだった・・・ 私は宇都宮〜仙台南まで配慮してもらえただけでも有り難かったので、「下道で大丈夫ですよ!」と言ったのだったが、緊急車両に乗って登場したタン氏の説得に、最後は警官を黙認させてしまった・・・ またしても緊急車両扱いとなって東北道に入れたのだった・・・ 4度目の奇蹟だ。警察官の方々には迷惑だったかも知れませんが心より感謝して盛岡に向かった。  

このおかげで2日がかりの移動が1日で済んでしまい、スケジュール的にも助かって、体力の消耗も減った。 2時間後に盛岡南ICで下車、妹タックを盛岡駅で拾って私たちが中学まで育った岩泉町に向かった。 雪道と峠を越えて盛岡より更に2時間かけて無事に岩泉町に到着。 現状を知るために町役場に向かい被災者名簿を確認してから、役場の3階へ通されて被害状況を確認した。遠方からの来客として町長さんが直に津波の写真を見せて説明してくれた。4m〜7m・・・津波の高さをニュースではそう言っていた。しかし河川上に巨大な防波堤をもつ岩泉町小本地区の、防波堤に設置したカメラが捉えた写真を特別に見せてもらったが・・・ 明らかに津波は20m前後の高さで襲って来ている! 防波堤にぶつかった荒々しい波しぶきを入れるならば30m近くまでに達している・・・ 「・・・。」 凄過ぎて私も妹も「あ・・・」言葉にならなかった。早速車で20分かけて被災地へ向かった。到着して余の変わりように言葉を失った。自衛隊が切り上げた後の人気の無い被災地を妹と歩いた。途中で偶然にも連絡のつかなかった叔父と遇った!やはり一人で徘徊していた。叔父は津波を目の前で見届けたらしく興奮して同じ説明を何度も繰り返し続けた。普段は冷静でもの静かな叔父とは違っていた。夜は津波のトラウマで眠れなくなって体調不良だと言う。 私たちが話しているところに地元の被災した漁師の方々が集まって来た。港が無い、船が無い、家がない、復興したとしてもいつになるか分からない。家族を被災された方々の言葉には重苦しい重圧があった。 私には何も出来ないのか・・・ その夜は叔父宅で一夜を明かした。叔父の家は運がよかったのか庭先まで津波がきたものの影響は受けなかった。叔父の家から500mも奥まったところまで波が届いているのに不思議だった。地形が影響したと思われる。

<道路の左右にあった町並みが消えてしまった。奥にみえる7つの柱が河川を遮断する防波堤だが、高さ20mの柱を飲み込む勢いで津波は押し寄せて来た(岩泉町小本地区)/写真1>


<写真1を反対方向に歩いて行くと親戚の屋敷があったのだが瓦礫となっていた。ちょうど妹が立っている場所である/写真2>

翌朝、ガソリンを含む物資を避難所で分けるように叔父にお願いし、隣町に向かった。隣町は日本一の防波堤を持つ田老町だった。高さ10mの防波堤が全長2.5kmもあり、津波に関しての知識や訓練も他の町より優れていたはずだったが町の半分以上は瓦礫となっていた。唖然とするしかなかった。避難所を回ってから沿岸を南下しようとしたが道路復興の関係で宮古市内を通過して盛岡に向かうことになった。予定をしていた釜石〜気仙沼は見送りとなった。僅か3カ所の訪問だけでも十分に精神的ダメージを受けていた。そのまま盛岡〜奥州市〜仙台と移動し、残りの物資を仙台の知人にお願いして、帰路についたのは午前0時となり、下道をゆっくり走って午前10時に柏の自宅に到着した。

<無惨なローソンの姿・・・ 右後方に見えるのが日本一の規模と称された10mの防波堤。津波は余裕でそれを超えて”壁の要塞”と言われた町を余裕で飲み込んだ(宮古市田老地区)/写真3>


<テレビでもよく映されていた漁船の姿・・・(宮古市内中心部)/写真4 >

物資の全ては静岡市にあるハワイアンフラ「チームハルミ」からの援助であると説明を加えて渡すことができた。公的援助で恵まれている避難所を避けて、緊急に必要とする方々へ届いくように配慮できたかが気になる部分だった。用意して下さった人たちの気持ちが、必要とされる方々に喜ばれているか少しでも知りたかった・・・
阪神淡路や新潟の震災でもあふれる物資や計画性のないボランティアで困っていたことを学んでいたからだった。 この度の行動の理由としては視察の意味もあった。これから始まろうとする津波と原発からの復興に、私たちが組織としてどのような協力が意味を成せるのか!? これからスタートする計画の糧となることを願うだけでした。 
自宅に到着して間もなく、副代表タン氏からメールが届いていた。 その内容にこの度の意味が5度目の奇蹟として凝縮されていた。タン氏に届けたガソリンが、停電で悩む、人口呼吸器を必要とする患者のもとに運ばれて、絶妙なタイミングで発電機を動かす燃料に使われたとのことだった。(燃料切れ寸前で)患者の家族からも涙で感謝されたとのことだった。 「良かった・・・」皆の気持ちと行動が、巡りに巡って人を救った! 
これだけの被害がある中で、本当に小さな出来事かもしれませんが、人は人によって救われ、人無くしては前に進めないと改めて知らされた気がしました。

この第一弾とされる行動では副代表タン氏、巨匠ハルミ先生が目立って登場しましたが、その周囲にいる方々の多大なる協力を頂いていることを、このサイモンはしっかり見届けています。 私はそのような一人一人の心ある行動こそが真の良き未来を構成する大切な糧だと思っています。 この度の震災のように本当に辛いときもありますが、ラケットボールがきっかけで素晴らしい方々と共に人生を歩める毎日が、嬉しくてたまらない今日この頃です。

※次回からはブログ本来の姿に戻って、また石原慎太郎氏(地雷を踏まぬよう)のような実直な辛口トークで、ラケットボール「真実の10年史」へと戻りたいと思います。 被災活動については随時差し込んで参りたいと思います。






# by kokekokeirt | 2011-03-29 20:18
M9.0東北地方太平洋沖地震(4)  奇蹟の激走!
3月19日、ついに動き出してしまった・・・  自制心を押さえきれず東北の被災地に向かう事に決めました。何故ならば同じIRT役員である仙台出身の副代表タン氏が自衛隊とともに地元ボランティアとして活動していたため、現状の厳しさを聞いていたからだった。凄いことにタン氏は、空き時間のほとんどをボランティアに費やしていました。  そしてその成果が認められてタン氏所有の数台の車が自衛隊お墨付きの緊急車両になっていたのでした!!  本当に驚きです。
ガソリン、物資、食料・・・足りないものを挙げたらキリが無いけど少しでも困っている人を助けたい、そして自分が幼き頃に育った現地が見たい・・・  どうせ行くなら少しでも必要とされるものを持って行かなければ!?  そこで1つにしぼって、物資は国に任せてガソリンを持って行く事に決めました。 しかし関東もガソリンスタンドに行列ができて上限¥2000まで・・・ これでは無理だ・・・自分ので精一杯だ・・・そうだ関東がダメなら中部、関西がある! まずは中部の最も関東に近い県庁所在地、静岡に・・・ 19日夜に柏を出発〜高速のスタンド(海老名SA)で1時間半並んで¥2000分のガソリンをマイカーに、更に足柄SA〜富士川SAで同じく¥2000分を入れながら静岡市に到着したのは20日の早朝だった。

<深夜にも関わらず¥2000分のガソリンをGETするのに一時間以上並んで待つ海老名SAスタンド>

仮眠を取って奇麗な朝富士を見ながら午前9時に活動を開始、まずは静岡市内のホームセンター、カーショップのほとんどにガソリン専用タンクがないか片っ端から電話をかけて調べた・・・ しかし答えはNO! 全て完売で、絶望的状況だった・・・最初で躓いた・・・ 関西まで行くしかないかな・・・ すぐに大阪の珍人である日本を代表するラケットボールプレーヤー”ムネ”(そのままだね)に連絡を取った。 ムネは直ぐに薬品会社のネットワークを通じてガソリンタンクを探してくれた・・・しかし土曜であることと、状況が状況なだけに関西でもガソリンタンクを手に入れる事は出来なかった・・・ 路頭に迷ってしまった・・・  諦めるしかないかな。  妹から寝不足を心配しての電話がかかってきた。 私は「ガソリンは静岡で入れられそうだけどタンクが買えない・・・来た意味がない」と妹に愚痴をこぼした。

<朝は晴れて富士山が見えた、珍しくも雲の帽子をかぶっていた>

妹と電話を切って間もなくして見慣れない電話番号の着信が届いた。   「サイモン先生お元気ですか?ハワイアンフラのハルミですけど」 タキヤ・クーイポ・ハルミ先生だ!  昨年行われたIRT-JAPANアジア連盟加盟式に参加した人は記憶に新しいと思います。日本でも数少ない伝統派を継承するハワイアンフラの巨匠から直々のコールだった。
「妹さんから聞きましたけど静岡にいらっしゃるんですね? 私に何かお手伝いできる事はありますか?」・・・そう言えばハルミ先生は静岡市在住だった。  私は一連の流れを話して、残念ですが諦めて帰るところですと伝えた。 「少しまっててくださいね」とハルミ先生は言い残して電話を切った。少し経ってから電話があり「今から私の幼なじみがガソリンタンク持って行きますから静岡テレビ局の前まで行って下さい」・・・え!とても驚いてしまった。ナビを操作して指定場所に着いたら、ハルミ先生の幼なじみの望月さんが風に吹かれながら立っていた。勿論初対面。マダム望月さんから1××リットル分のガソリン&灯油タンクお借りすることになった。そのうち2×リットルは「寄付します」と言ってガソリンを入れて来てくれた・・・ まさに奇蹟のスタートだった。

<初対面のマダム望月さん、心より感謝でした>

その後もハルミ先生の一声から連絡が周り、タンクを貸してくれる方々が出てきて、更にはハルミ先生のご家族が静岡市内を巡ってタンクを回収してくれた。夕方には3××リットル分のタンクが集まり、夜には皆さんが手分けしてガソリン&灯油を満タンにしてくれた。そしてガソリン&灯油だけではなく山ほどの物資も用意して下さっていた・・・ ガスコンロ、ボンベから電池、ソーラー充電器に懐中電灯、食品、生理用品、水、あらゆる物が車一杯に(車はヴェルファイア8人乗り)積まれた。  そしてそれは全てが「寄付」として預かる事になった・・・(ガソリン&灯油も寄付) あっという間の奇蹟だった。絶望的だった状況から一変した。巨匠ハルミ先生の凄さもさることながら、協力して下さった皆さんの優しさに涙がこみ上げて来た・・・しかし泣いている場合ではない!この心温まる物資を冷める前に現地の方々に届けなければ!! アドレナリンがMAXになり疲れもどこかえ行ってしまった。3月20日22時49分に巨匠ハルミ先生のご家族に見守られて静岡市を後にした。

<大きな段ボールが積まれていく>

 その後、ダイレクトに東北に向かおうと思ったがルートの計画と着替えを取りに柏の自宅に戻った。柏到着21日02時09分、そして柏出発03時05分〜その間に第2の奇蹟が起こった。高速道路が閉鎖の為に一般道で走ろうとネットでルート調べていたら、ちょうどその時間より、閉鎖されていたされていた東北自動車道が宇都宮まで開通となった! ラッキー!!何というタイミングだろう・・・ 宇都宮まででもかなりの時間短縮になる!  今まで見た事無いように明るい満月の中、ガソリンを補給しながらで宇都宮に到着。そこで検問があり、質問を受けた。 「緊急車両でなければ一般道に降りてください」私は何を血迷ったか、「証明証は持ってませんが緊急車両です」と答えてしまった。「車の中は何ですか?」・・・「はい、ガソリンと灯油、物資です。ぜひ中を見て下さい!」懐中電灯で後部座席を照らしたのち警察官の答えは「次回からは証明証を持って来て下さい、今回はそのまま行っていいですから」!!第3の奇蹟だった・・・緊急車両と同じ扱いになって高速が使え、尚かつ高速料金がかからない・・・ そして朝には仙台に到着できる!  昨日から神様が助けてくれていると思った。  いつも助けられているのにその時だけ特に強く思えたのだった(お調子者)。 
8時30分に仙台南ICに到着、副代表タン氏にガソリンを渡す為に東北道を下車。もう高速には乗れない事を覚悟して降りた。 仙台南IC入り口でタン氏と会って一部ガソリンを渡すことができた。
<長くなってしまったので、”M9.0東北地方太平洋沖地震(4)奇蹟の激走!”はこれまでにして、続きは(5)持ち越したいとおもいます>

<写真は巨匠ハルミ先生のご家族、真ん中がハルミ先生。ガソリン&灯油は布団の下に・・・>
# by kokekokeirt | 2011-03-28 03:52
M8.8東北地方太平洋沖地震(3)
津波が襲来してから1週間が経った本日3月17日、千葉県は今朝から息が白く見える程に冷えこみました。 真冬並みの冷え込みを辛うじて凌いでいる被災地の皆様を思い、胸を痛めている方々も多いと思います。 東北は朝から雪に見舞われていました・・・
IRTに関係する方々の親族は全員無事を確認できました。消息を絶っていた私の叔父も2日前に被災地にいるところを親戚に発見され、親戚より連絡を貰いました。同じ地域の親戚ですら何処にいるか分からない叔父の行動には「?」ですが 海、山、川を熟知している人なので心配はしていませんでした。せめて「連絡をちょうだいよ!」と心の中で叫びました。 花や野草が好きで自然を愛する叔父は、実はIRT創設にも陰ながら多大な協力をしてくれた人でした。私の実母の弟になりますが数年前に県の職員を退職して、朝は山へ出かけ昼は漁師を手伝ったりする毎日を過ごしていました。 至って無口ですが極度のお人好しの為、地元では信頼のある人として慕われていました。私が尊敬できる方の一人です。

被災地では未だ行方不明の方々の捜索や、遺体回収などの想像を絶する作業が続いています。更に輪をかけるように原発の心配も気が気では無いでしょう・・・
このような事態に慣れていない私たちはただ手を拱いて見ていることしかできず、その状況に腹立たしさすら感じます。 現地の方々ともやっと携帯で連絡がとれて、現地の凄まじい状況にただため息がでるだけでした。 直ぐにボランティアを考えましたが、阪神淡路や新潟の震災時にボランティア活動が円滑に回らず、足手まといになったことが教訓としてテレビで流れていたのを見て、冷静な状況判断が必要であることを学びました。 これからかかるだろう長期復興活動に対して綿密な計画のもと、被災地へ出向く計画を考えることにしました・・・
予定された各種スポーツイベントが中止となり、ラケットボールではFANダブルスや全日ダブルスも延期となりました。

そのような中、世界各国のラケットボール関係者からの暖かいメールがIRT-JAPAN宛に届いておりました。近日公開されると思います。 

<下記は友人が送ってくれた宮城県気仙沼市、鹿折唐桑駅(ししおりからくわえき)の周辺です。住宅で埋め尽くされたのどかな場所が無惨な姿になりました。大きな船がある周辺に友人宅があったようです。この場所は気仙沼湾より1キロ以上離れた場所にあります>


余談になりますが、本日の予定は静岡でガソリンを100リットル購入して、それを仙台の副代表タン氏の所に届けてあげようと計画を練っていました。  深夜に走れば下道でもスムーズに届けられると考えていました。 その計画を妹タックに話したところ、「物資を届けようとして東北入りした車が、ガス欠になって路上の横に置き去りにされて、交通の邪魔になってるらしいよ」といわれた・・・  テンションが下がると同時に、自らの往復分を確保することを考えてしまい延期になった・・・

# by kokekokeirt | 2011-03-17 20:22
M8.8東北地方太平洋沖地震(2)
電話が未だに繋がらない・・・昨夜も(12日)復旧には至っていないのだと思った。茨城県水戸市に住むIRT役員のDr39氏から電気は無いけど皆無事ですとメールが入った。  本日になってIRTスタッフメールに対する返事がぽつぽつ入って来た。 岩手県奥州市在住の副代表タック(妹)からも今朝になって電気が通ったと連絡が入った。 仙台に住む副代表タン氏からも無事であると電話があった(まだ仙台市は完全復旧ではない、海沿いは被害は酷い)。 多数の友人、ラケットボール関係者から心配のメールが届いていました・・・  本当にありがとうございました。 

地震当日には帰宅難民になったスタッフも何名かいたみたいだった(お疲れさまでした)。  私も副会長や社員兼IRTスタッフのMティーを送り届けるべく地震当日は深夜のドライブにでた。  柏〜草加までは何とかなったが、それ以上は進み具合が悪かったので断念した。  無事に副会長を草加でおろし、江戸川区に住むMティーにはそのまま折り返し我が家に泊まってもらった。 仙台や千葉県旭市にいるスタッフが津波にやられてないかが心配だった。  旭のスタッフ方々は避難したと知り、ノブリンの自宅すぐそばまで波が来ていたと情報が入った・・・  皆が無事で本当に良かった。  
しかし3日たった今でも余震が続いている以上は、油断大敵だ・・・

私事になりますが、私が中学まで育った実家は津波にのまれました(岩手県宮古市周辺)、そして私を中学まで育ててくれた叔父も未だに消息不明。 (サバイバルな人なので心配はしていない)
私の親族に当たる祖父(福島県いわき市小名浜)も完全に津波に流されて、祖父本人はスーパーで買い物中に波にのまれて、気がついたら病院のベットだったようだ。 流された時に、腕の骨が見える程の外傷を負ったが命に別状はない・・・ 不幸中の幸いだった。

この度の津波は1933年、昭和8年3月3日に襲来した三陸大津波以来の大きなもになる。  当時の教訓を生かして毎年3月3日には避難訓練が行われ、それ以外にも津波の知識を教え込まれて来た。 そのような免疫のある地域でも新たに今回のような被害をもたらすのだから自然の驚異は人の物差しではかれない。  

このように命に関わる出来事を垣間見れば、些細な事で揉めてしまう人間模様が小さすぎて不思議に思う。

<<<丁度いま仙台の副代表タン氏からの連絡で、ボランティアの要請があったらしく、仙台で津波にのまれて流された人の死体回収に向かう途中とのことだ!! かなりの人数が水死体になったのはニュースでみているが・・・  さすがに勇気がいると副代表タン氏は言っていた。健闘を祈るしかない・・・ >>>

※下記の写真は、IRT事務局を掃除するスタッフのGショウ氏(左)とケンワタナベ氏(右)。
ここはビル8階の一角で、普段は富士山が見え、このごろはスカイツリーも見える程の高い場所にある。  景色は最高だが、地震ではこの有様だ・・・  このようになる状況下で、女性一人で机の下に避難した副会長は本当に死を覚悟したのだろう思う。 ビル事崩壊すると思ったらしい・・・
# by kokekokeirt | 2011-03-13 14:38
M8.8東北地方太平洋沖地震!
出張途中で茨城県阿見のショッピングモールにいた。用を済ませて駐車場に向かう途中に揺れ始めた・・・ 映画で観るような激しい揺れで、悲鳴と共に多数の人ごみに巻かれて、収まるのを待った。  すぐにショッピングモールで別れた社員を探し出し、出張には向かわず会社と自宅がある柏市に向かった。高速道路は閉鎖されたので下道で向かった。途中の家々の瓦や塀が崩れているのが目に付いた。 裏道や農道を利用して何とか1時間で自宅に着いた。 棚が倒れて多数のグラスが割れて、トイレが水浸しになっていたが、大したことは無かった。
<<<おっといま揺れてます・・午前3時59分新潟で震度6>>>柏市は震度3と出ているが、4のような気がする・・・>>>
自宅を避難所にするため急いで掃除を済ませてコンビニで買い出しをして会社に向かった。ビルの3階にある会社では社員とその関係者全員の避難場所となっていた。誰も怪我なくホッとした。 その中にIRT副会長の姿もあった・・・・ IRTの事務局は同ビルの8階だったので揺れは激しかっただろうと想像ができた・・・・ 5つある全部の棚が崩れ落ちて、副会長は机の下に隠れて一命を取りとめたようだった。 副会長はビルが崩れて、本気でだめかと思ったらしい。 壊滅状態から抜け出す最中に、3階から駆けつけたIRTスタッフのGショウに助けられて3階に避難したのだった。 2階にある病院、1階の薬局も大変なようだ。 
津波の話になりますが、私は幼きころから津波に対する避難訓練を受けてきた。それは子供のころ育った場所が三陸海岸だったからだ。 その私の親類がいる岩手県宮古市周辺と、福島県いわき市小名浜周辺はほぼ壊滅で、双方の親類宅が津波で流されたことは間違えないだろう思う・・・ なぜなら双方共に自宅のすぐ近くが海岸だからだ。 未だ2名の親類と連絡がついていない。 一人の叔父はサバイバルな人だからどうにか生きてる気がするが、小名浜の祖父は高齢なので本当に心配だ。避難できていることを願うだけだった・・・

これから沢山の余震があるようなので、皆さんも本当に気をつけて下さい!

13日(日)のIRT緊急理事会は中止となりました。

下記の写真は車で移動中に千葉県我孫子市から写した筑波山とそれを包む怪しい雲(地震雲か!?)



# by kokekokeirt | 2011-03-12 05:15
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ラケットボールって何?人口が激減するマイナー競技を救うべく立ち上がった少数精鋭者たちのあり得ない闘いと数奇に満ちた奇蹟の連続を日々の日記を交えて綴ります..

by kokekokeirt
★必ず読んで下さい★
『マイナースポーツと奇蹟の奮闘記』は全て連動したストーリーです。
「はじめに」
「知らない人の為に...」
「序章 No,001」
を読めば日々の展開を理解しやすくなります。

【参照】以前の記事
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